今日は金曜日であった。昼間は温泉街をぶらつき、少し買い物をしようと思った。酒屋で赤色と黒色のボールペンを買った。居心地のいいカフェでコーヒーでも飲みたいと思ったのだが、カフェはなかった。しかたなく、ひたすら歩いた。
途中、お土産を売る店に何店か入っていった。キーホルダーでも買おうと思ったのだ。だが、どれも高い。どれも500円くらいする。まあ、観光地だから仕方のないことなのかもしれない。とある一軒のお土産屋に行ったとき、店の前のベンチに座っていた老婆に声をかけられた。お茶を飲んでいきなさいという。そのお茶は何でも木の皮でできたお茶であるという。味はうまいともまずいとも思わなかった。目に効く薬効茶であるらしい。パソコンを使う仕事をするなら、そのお茶を飲んでいると疲れがとれるらしい。
値段を聞いたら、3600円であるという。高い、高すぎる。ブランド物の高級紅茶を買えば、確かに同程度の値段はするけれども、私にはその木の皮を買うだけの金銭的な余裕がなかった。木の皮は袋に詰められていて、見た目には単なる木の皮にしか見えない。おじいさんが山で採ってきた貴重なものなのだという。財布には2万5000円ほどの現金があったが、それでも心は動かされない。お茶を飲み干して、老婆に礼を述べて店をあとにした。
寮の部屋に戻る。今日の夕方の五時に再び、派遣会社に連絡を入れる予定になっていた。それまで時間があった。何もすることがないので、タバコを吸いながらのんびりとテレビを見る。久々にのんびりとした気分である。昼のワイドショーを見る。それなりに楽しんだ。かつてはワイドショーが馬鹿馬鹿しくて仕方なかったのだが、労働で疲れている日々にはワイドショー的な肩の凝らない内容のテレビ番組というものが、頭を休めてくれる。
その後、4時から『結婚できない男』というテレビ番組がやっていた。ついつい観てしまう。そして、一時間まるまる引き込まれて観てしまった。このテレビドラマをすべて観てみたいと思った。だが、明日の予定が未定だった。私はこの仕事を辞めて家に帰るのだろうか。家に帰ったら存分にテレビドラマを楽しむことができるだろうけれども、働いていたら昼の再放送のドラマは楽しめない。あの主人公の男はいったいどうなるのだろうか。確かめようがない。
五時になった。そろそろ派遣会社に電話をしなくてはならない。携帯電話をもっていなかったので、歩いて近くのホテルまで行く。ホテルのゲストではないのに、ホテルに侵入するのは少し緊張する。本来、ホテルというものは、誰が入ってもいいはずである。大きなホテルになればなるほど、そういうのはうるさくない。だが、中型のホテルの場合、ホテルの利用客以外の人間に対しては、冷たいことが多い。その辺はホテルの経営者の考え方やホスピタリティーに影響してくると思うが、公衆電話くらいは自由に使わせてもらいたいものだと考える。
派遣会社に電話した。担当者がでた。私の言い分は担当者に昨日詳しく伝えておいた。そして、今日でた回答というのは、まず、勤務先の上司たちは私が辞めることを非常に残念に思っていること。そして、女将の私に対する暴言に対しても、上司たちは恐縮しているということ。これらのことを担当者は私に伝えた。それから、私は上司たちと話をしなければならなかった。
重い足取りで勤務先のホテルに向かう。それでも、私は簡単に辞められるものだと思っていた。私はもう面倒くさくなっていたし、それに、ここでの生活に早くも嫌気がさしていた。夜、眠るときはクシャミがとまらないことがあった。ホコリが多い部屋なのだ。ふとんにもホコリがたくさんついているのだ。そのほかにも不平・不満はたくさんあった。人間関係にも不満はあった。みんなが私をチヤホヤしてくれないことにも不満があった。だが、そんな不平・不満をすべて押し殺して、私は辞める理由をすべて、自分の能力不足のせいにした。
ホテルの事務所に到着する。直属の上司の課長がそこにはいた。常務もいた。彼らはもうすでに派遣会社から事情は聞いているらしい。すぐに面談となった。面談はまず、課長からであった。課長は私に対して、辞めるなといい、そして、社員の能力は社員が判断するものではない、会社が決めることだ、一週間程度勤めて個人の能力が判断できるものではない、もう少し勤めなさい、半年勤めて駄目だったらこちらから辞めろというよ、といった。もっともな話である。それから、女将の私に対する暴言にも話は移行していった。
女将に対する不満というのはどうやらほかの社員からも出ていることらしい。不満に思っているのは私だけではないので、きちんと女将に言って聞かせるからということであった。そして、私は、「女将が私に、“あなたは馬鹿なんだから、生まれつきほかの人よりも頭が悪いんだから”と暴言を吐いたのは、あれは、ひどいと思いますが、実際に私は頭が悪いんです。物覚えが人よりも悪くて、、、。」というと、課長は、「そんなことを自分で言うもんじゃない。自分に対して誇りをもってないといけない」といった。
それから、常務との面談になった。常務は私を社長室に連れて行った。社長室は事務所の二階にあった。その後、延々とそう、2時間くらいであっただろうか、常務は私を必死で引きとめようとした。様々な話が出た。常務の過去の仕事について。いかに自分が仕事で大変な思いをしたかについて。そして、私は自分がこれからやろうとしていることについてもざっくばらんに話をしたつもりであった。私は自分の退職理由を、やはり、自分の能力不足のせいにしたのであるが、それについては常務は納得しなかった。誰でも最初はできなくて当たり前である、と。
会社で新しい仕事をやらなければならないときに、ノーヒントであることのほうが多いと。私は常務の言っていることにうなずき、すべて、正しいと思ったが、心のほうはもう退職を決めていたのだ。だが、最後、常務が、「じゃあ、いつ辞めるの?」ということを聞いてきて、「すぐ明日辞めるというのは困るよ」ということになった。
うーむ。正直言って、困った。私はもう面倒くさくなって、地元に戻ってゼロからやり直したい気分でいっぱいだったのだ。どうも、社会的責任というやつが、会社勤めをすると頭をもたげてくる。無責任を貫き通すという姿勢を貫徹するなら、ときには狂人のフリをしてでも、社会の規範から逸脱することもアリだろうと思うのだが、、、私は今回ばかりはきちんと日本的な筋を通してみようと思った。辞めるにしても、逃げも隠れもしないつもりであった。
だが、そうなると会社側がいてくれという限り、ずっといなくてはならなくなる。その辺がジレンマなのだ。私は派遣の身分であるからまだしも、正社員になるとこの引きとめの圧力というものが、とてつもなく重くなることを知っている。筋を通して、きちんとケジメをつけようとすればするほど、簡単には辞められなくなってしまうのだ。そして、日本的な厄介な人情の問題も発生する。簡単にはブチン!と人間関係を切ることはできない場合もある。とはいえ、最近はドライな会社も多い。私はよく転職をするのだけれども、「辞めますよ」といって、すぐに退職が受理されることもこれまで多かったのは事実である。
常務と私の、「やめるな」、「いえ、やめます」という攻防は延々と二時間続いて、ついに、常務は、「結論は出さないということで了解していただきたい」と言った。すぐにやめられては困るので、とりあえず、今月の下旬まではいてくれとのことだった。決算の時期なので、いろいろとやらなければならない事務作業が多いらしいのだ。
常務は私に、「世の中は結論の出ないことのほうが多い」ということを話した。なるほど、そういうものかもしれない。私のほうも少し折れる気になっていた。結論を出さずにダラダラと続けるのも、それもまた一興かもしれぬと思っていた。
とはいえ、不安は消えていなかった。何か解決をしたのかといえば、何も解決していないに違いあるまい。金は欲しかったが、ほかにも金を得る手段はありそうであった。そして、自分自身も変わるつもりは毛頭なかった。私は日本社会に絶望していたし、地上で最後の楽園、タイで暮らすことしか頭になかったのだ。そのための資金を稼ごうと思って、いまこうやってあくせくと働いている。手段は何でもよかったのだ。
海外の生活を一度でも知ってしまうと、海の向こうが楽園に見えてしまう。そして、日本の価値観、会社を中心とした価値観というものがすべて滑稽なものに思えてしまうものである。気持ちのいいことばかりではないのが人生であるが、そんなに肩の力を入れて真面目に生きることばかり考えていたら、楽しくないではないか。そんなことばかり考えていた。働かなければ楽園に行く旅費さえ稼げないというのに。