常務と話をした翌日、私の心は憔悴しきっていたが、それでも何とか心を入れなおして、定刻通り、職場へと向かった。職場へ向かうときにたまたま同期の人と一緒になった。彼はどもりが強く、そして、あまり会社社会に適応できていない人だったが、それでも心根は優しげな人間に見えた。私はかなり疲れていたのだろう。いままで勤務していた間中、ちょっと人恋しくなるとその人のところへ行っていた。会社でもどこでも、駄目な人とつるむと、駄目が自分に伝染してしまうということがある。
これは一面の真理を表している。駄目な者同士でかばい合い、愚痴を言い合い、そして結局、駄目スパイラルに陥っていく。本当に心根が優しいのかどうか、実はものすごくエゴイスティックな側面をもっていたり、身勝手な人物なのかもしれないが、心が衰弱しきっているときというのは、駄目な人に吸い込まれてしまうのだ。そして、自分の理解できる範囲しか物事を寄せ付けようとしなくなる。いまの私がそうだった。会社にはもっと明るく、そして力強く生きている男女が大勢いた。彼らがあまりにも私には眩しくみえた。あまりに眩しすぎて、目をそむけてしまうのだ。今は冷静に人間を観察し、真実を見極めるだけの冷静さを欠いているように思われた。諧謔の精神も、真面目な社会を笑い飛ばすだけの精神的体力もなかったのだ。ただただ、会社に通うだけで精一杯であった。
会社に行き、タイムカードを押した。それから、普段どおり、同期の人と一緒に宴会場の冷蔵庫のチェックをした。仕事ができない者同士、いわゆる、「なれあい」というやつで、ダラダラと仕事をした。10時過ぎになって事務所に帰る。それから、私は納品書をエクセルに入力する業務を命じられた。おそらく、ちょっとでも事務の経験のある人であれば、そんな仕事は朝飯前であっただろう。ちょちょいのちょいで終わる仕事であっただろう。だが、私はただただ数字を入力していくことでさえ、えらく時間がかかった。
午前中、全体ミーティングが事務所の中で行なわれた。私はそのミーティングに普段であれば参加するべきはずであった。だが、常務は私に対して、電話機をぞうきんがけする仕事を命じた。「掃除くらいならできるだろ」という話であった。確かに、掃除は好きである。黙々と仕事をしていれば済むからである。だが、その業務命令は、昨日の私の、「退職を何がなんでもする」という強硬姿勢に対しての、常務の腹いせではななかったのか?という気がしている。みながミーティングをやっている前で、ぞうきんがけをさせて、みせしめにしたかったのではないか。私が職場にいる限り、私の意志や考えなど、いつでも粉砕できるという、そういった浅ましい考えが常務の心に浮んだのではないか。
常務が私をどう思っていようと、私はひたすら黙々とぞうきんがけをした。私が常務に、「ぞうきんがけ終わりました」と告げると、常務は、「まだまだ拭き足りないよ。ぞうきんがけの意味わかってる? 君のやり方じゃ、汚れを伸ばしてるだけだよ。それにまだ20分たってないよ。机の上とかもきれいにしてね。」と言った。
反抗する気もさらさらなかった。「まあ、そんなもんか。ぞうきんがけも仕事だよな。」と素直に考えることにした。具体的に反抗をするとややこしくなる。常に冷静にいなければならないと思った。
ぞうきんがけも終わり、それから再び、ひたすらエクセルへの入力作業に戻った。そして、電話番。電話はこの一週間で少しだけ進歩しただろうか、、、。いや、何も変わっちゃいないか。それでも、「ええい!」という勢いでもってかかってきた電話はとりあえず出ることにした。
その日の午後が終わって、すぐに別のホテルに急いだ。公衆電話を使うためである。私は携帯電話をもっていなかったし、勤務先のホテルの公衆電話は使いたくなかったのだ。私は派遣会社に電話をした。
「あ、お疲れ様です。」
「あ、どうも、昨日の件なんですが。課長と話をした結果、やっぱり、別のスタッフさんをうちのほうで探すということで話がつきました。」
「あ、そうだったんですか。」
「ええ、課長さんのほうでも大変残念がっていらっしゃったんですが。やっぱり、どうしてもできないとなれば、なるべく早いほうがいいですよね。」
「昨日、常務と話をした限りでは、辞める辞めないの結論は今は出さない、ということだったんですが。」
「あ、そうだったんですか? それはおかしいですね、、、。でも、うちのほうで新しいスタッフさんを探します。」
「そうですか。いやあ、実は、今日、常務の態度が急変しましてね。」
「といいますと?」
「いや、常務の態度が威圧的になったというか、、、。」
「威圧的?」
「ええ、全体ミーティングのときに、私にぞうきんがけをやらせたりとか。いやあ、別にぞうきんがけが嫌とかそういうんではないんです。ただ、腹いせにそういうことを命じたのかなって。」
「そうですか。」
「私のほうとしても、いきなり辞めるとか、相手を怒鳴るとかそういう風にして辞めるようなことだけは何とか避けたいと思いまして、、、。」
「そうですよ。うちの社員としていってもらってるわけですからね。」
「ええ。」
「詳しいことが決まり次第またご連絡差し上げますので。」
「わかりました。」
派遣会社の担当者は、実にあっさりとしていた。いや、親身になって対応してくれたといっていい。おそらく経験上、辞めたいと一度固く心に決めた人間を無理に引き止めることはしないのであろう。
私の退職が、そして、地元に引き上げる日がいつになるのはまだ未定である。一週間後になるのか、二週間後になるのか、それとももっと早いか、、、よくわからない。別のスタッフが来ることが決定しなければ、その辺のことがわからないからである。
まあ、、、また、会社というものの薄気味悪さを垣間見たわけだ。個人の意思とは程遠いところで物事が決定されていく。ホンネとタテマエのぎりぎりの部分で絶妙な綱渡りを演じきらなければ、やっぱり、会社勤めは勤まらないのである。
今回、いたらなかった点があるとすれば、、、それは総務という仕事に対して、ちょっと安直なイメージを抱きすぎた点である。スーツを着、事務所での滞在時間が長く、重い物は運ばなくてよろしく、黙々といわれたことをやっていればいいというのが、派遣の総務のイメージであった。実際はそうではない。色々、細かいことはやらされるし、社員と経営層との板ばさみになるし、重い荷物を運ぶシーンもたまにあるし、、、いろいろ大変だ。一番大変なのは、会社の人間とまんべんなく仲良くしなければならないことだ。でないと仕事がスムーズにいかないのだ。
私はまあ、、、イージーな人間である。こうやって色々分析してみるけれども、時折、イージーが過ぎると感じる。世間一般の会社勤めをしている人というのは、会社があって、家族があって(ない人もいるが)、自分なりに引いた人生のレールのようなものがあるのだ。いや、他人とか、運命そのものによって引かれたレールかもしれないのだが、そのレールの上をひたすら走り続けなければならないのである。あんまり自ら進んでそのレールから脱輪することはないし、それに、レールそのものを破壊しようとはしない。私は家の暖かい布団、清潔な布団が恋しかった。安楽で気ままな暮らしがひどく懐かしかった。
厳しい労働の現実を無視して、いきなりリゾバに飛び込んだせいだろうか。リゾバの華やかな、ムッチリ、プリプリ美女の楽園、性的放縦の泉のような、いわゆる酒池肉林を夢見て、私はリゾバを始めようと思ったのではないか!
それが、フロントの美女には無視され、視線を浴びたところで、汚いものを見るような目つきでにらみつけられる始末だ。今日の午後、フロントの美女たちが、たまたま私の座っている座席の後ろにきた。座席の後ろにはシンクがあって鏡があったのだ。彼女たちは専務から着用するよう命じられたスカーフをつけるのに忙しかった。私は彼女たちに声をかける気力はなかった。彼女たちは、「きゃっきゃ!」といいながら、スカーフをつけている。ほかの社員たちがそばにいたが、彼らは彼女たちに話しかけもした。そして、同期のどもりがちの男も、彼女たちになにやら話しかけていた。私ひとりだけが黙っていた。黙って、パソコンの画面に向かっていた。だが、あまりにも彼女たちを無視するような姿勢も、あまりにも不自然であると思われたこともあって、彼女たちの一人が、「すみません、ここ置かせてもらいますね!」と言ったときに、「きれいな色ですね」と一言発言をした。すると、彼女は「ええ、そうですね」と言った。それは悪い感じのしない返事であった。
「きれいな色ですね。」、、、その一言を言うのに、どれだけのエネルギー量が必要であっただろうか。私は何か言わなければいけないが、突然、突拍子のないことを言って不評を買うのも癪に障ったので、とりあえず、無難な台詞でお茶を濁したのだ。だが、それから先、会話を続ける努力は放棄した。私はその一言を言っただけで、今日の仕事は終わりと思っていたし、それだけで無罪放免になるだろうと思っていた。彼女たちが何を思ったのかは、私の知るところではない。私が声をかけた女性は、、、確かに、なかなかのきれいどころ、別嬪であった。派手な顔つきであった。こんな女と一発やることができれば、とりあえず、自分自身に対して功労賞を与えることができると思ったし、オリンピックにたとえれば、金メダルに値することだろうと思った。
だが、一発について、私はものすごく困難な道のりを想像し、その前で足がすくんでしまうのである。途端に断崖絶壁に立ったような気分になるのだ。あの子と一発をやるには、まず会社の人間たちの過半数ととりあえず人間関係を構築しなくてはならないし、となれば、廊下で誰かとすれちがったときなどに、「お疲れ様です!」と大きな声で挨拶をするだけでは足りないだろう。とりあえず、寮の部屋などで行なわれる飲み会などにも積極的に参加し、多くの人間たちと付き合いを深めていかねばならないだろう。となると、私の内面世界を無理矢理こじあけようとする輩にも遭遇するであろう。そうやって、腹を割った付き合いをしてはじめて、一発のチャンスが生まれるかもしれないが、どうやって一発をするのかも、それは前にも書いたが、一発の場所の選定の問題も生じることであるし、また、日取りの問題もある。また、一発をやることで同僚や上司の嫉妬を買うことであろう。いろいろな面倒くさいことをかいくぐって、やっとの思いで一発を楽しむことができるのであるから、これはもうやはり、なんらかの賞があってしかるべきではないか。
一発などしなくてよろしい、心の交流ができればいいのであるという人間もいるかもしれぬ。それであれば、心は千路に乱れることはないであろう。あるいは、「私はもういい年なので、そういうことには興味がなくなりました」といって戦線を離脱するのもいいが、だが、一発への野心というものを、年齢というもので覆い隠してしまうのは問題だと思う。いや、人はいろいろな台詞でもって、自己を偽ろうとする。偽らなければ、飾らなければ、装飾を施して防御しなければ生きていけないという部分もある。
何が言いたいのか自分でもよくわからなくなってきたが、とにかく、私が言いたかったのは、、、フロントの子たちがとても若く、美しかったことだ。彼女たちの内面がどうであるかは知らないが、外面的な美というものは否定できないのだ。こんなことをくだくだと並べ立てようとも、あるいはどんなイデオロギーで武装しようと、ああいった分かりやすい美、本能に直結した美というものの前で、私のような根が単純な人間はなす術もなくなってしまうのである。
もう眠らなければいけない。退職することが決まっていても、明日には仕事がある。閑職に追いやられても、出勤しなければならない。